エピソード

削除する方向で工事中でしたが、なかなか削除されないのでこの文章は必要なのかなと思う次第です。

心の病を経て

再考 完結編 長いです。

私の心をクリーンアップ

2020.12.28 13:38:18

心の病になって30年という節目を迎え、最終的に自分の言葉で第三者に伝えることができた1年でした。

その時その時でベストを尽くしていたのだから、すべてよしと思えるまでになりました。

トピックを振り返ります。

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あなたは言語療法としてそれを受け取ることができます。

きょうのニュース9は、記憶をテーマに作家を取り上げました。

記憶。経験は他人にとって糧になるかもしれません。

私の話なので繰り返し申し訳ありませんが、時間をかけてまとめます。

恋愛の状況は相手のプライバシーのために却下されます。

私はそれが通常の愛の状況だと思います。

だれもが大きな大恋愛の関係を持っています。

キスと処女は事故で奪われ、あなたは私を愛してる、私はあなたを愛していない。繰り返します。私は彼に「生きてていいの?という質問もありました。

それは痛いです。それは傷ついています。

私は元彼と結婚すべきだという人もいます。

そしてそれはそうではありません。

愛の終わり。

それはそれ自身の新しい到達です。次のステップ、道のり。

ファーストキスは18です。手淫は24です。私はちょうど私が33または34歳で私の処女を捨てたと言うべきですか?

そんなに話す必要はないと言うかもしれませんが、女性を形成する上で重要な転換点だと思います。

精神疾患の起源は、劇団四季のマインドコントロールです。歪んだ人格。壊れやすい若い20歳代の精神的打撃。

今、私は結婚していてそれは私の新しい人生ですが、私は慎重に些細な言葉で私の心を表現し、それを自分で修復したいと思います。

浅利慶太氏は和解後に亡くなりましたが、30分ほど直接話せば良かったのにと思います。また、浅利氏は苦い気持ちを持っていたので、正直に言って良かったと思います。なぜ?劇団では浅利氏はお互いに慰めあうことが出来ましたが、私はひとりで困りました。

最終的に浅利慶太氏が「いい人生だった」と思えたら良いのですが。

私たちはインターネットを使用し、プロセスについて話すことが出来ると思います。2008年にPCでカミングアウトするまで、約20年間私は沈黙していました。繰り返しますが、私は言語療法が必要です。読んだ人は「またか」と思っていると思いますが、このページを初めて開いたひとにお伝えしたいと思います。

1990年簡潔に言うと浅利慶太氏が劇団四季を継げと私に言いました。

劇団四季はライオンキングなどを演目に持つ日本の有名な劇団です。

21歳の少女にそれを行うことはできません。私はノイローゼになりました。

最初の話から詳しく話しましょう。

この文章が書かれた時、それは最初はオブラートに掛けられ、同じ悩みを持つ人の足掛かりになるように素直に書くように友人の薦めがありました。本名はでてきますが、K氏Y氏と一緒に読み進めて行くと空気が読めないし、読む人は消化不良になります。

それを隠すことなく、「真剣な読者」のために話ます。

結局のところ、30年前の話で亡くなってしまった人もいれば、忘れてしまった人もいると思いますが、私と出かけてください。

小、中、高校、と演劇部でした。「キャッツ」と「青い鳥」の舞台を観ました。そして演出家の浅利慶太氏の写真がカタログで掲載されています。私はいつかこの人に会おうと思いました。俳優になることを夢みていましたが、いや、バレエ習っていないし、俳優で劇団四季に入れない。美術で入社しようと決意する。金森馨氏の舞台画を観て絵画を勉強しました。武蔵野美術大学短期大学部美術科、恩師の島眞一氏は抽象画家でしたが、裸婦を徹底的に描けと言われ芸術の基礎を学びました。幸い、一年制の短大の大学院みたいなところの専攻科に進学することが出来、卒業の仕事で、私は自分のオリジナルの仕事をすることが出来ました。しかし、劇団四季の技術スタッフの求人を受けました。

入社前に「ユタと不思議な仲間たち」という演目の感想を書く機会がありました。私はフライングがない方が良いと思ったり、照明がレーザー光ではない方が良いと思って、思った通り書きました。なぜなら、演劇はサーカスではないと
思ったからです。コメントの最後に「創造力を活かしたい」と締めくくりました。

しかし、入社した日にしまったと思いました。実際、自分が思ったように書くべきではない状態でした。

当時は浅利慶太氏のことを浅利先生か演出家と呼ばなくてはいけませんでした。浅利さんなんてもっての他です。

演出家に歯向かうとは何事ですか?仕事しなさい!と言われ、私がいじめを受け、いじめられた時、私はまだ、乙女だったので、私の心は痛いです。男性スタッフから、20歳過ぎて処女とは言わせないよと。

「創造力ってなんなの創造力って」とからかわれていました。

カッターで予期せぬ怪我をした時、上司の平瀬氏は「カッターは切れる道具です。あなたはそれを知っていましたか?」
と嫌味を言われました。私は一人暮らしを始めたので両親は私に何があっても1年間一生懸命働くようにと言いました。
しかし、私は若いので、私はいじめがなんであるかを両親に伝えることはできません。

そうこうしているうちに、寺山修司作の「王様の耳はロバの耳」を稽古場で観る許可を得て、平瀬氏は私のすぐ隣に座っていました。「本当のことを言いたいね」「思ったとおり言いたいね」というセリフにわたしが感動して鼻水をたらしながら涙を流しているところ、平瀬氏は「そうだ!感想文は思ったとおり書いたんだね。」浅利氏はゲネプロで「俺が言ってることだけをやっていないで、自分で考えろ!演劇は『そうぞう力』だ!」とみんなの前で叫びました。

次の公演、「ひかりごけ」のゲネプロ。「あの方と違った風には思われないのですがというセリフに共鳴したのだろうか?

男子トイレで浅利慶太氏が号泣しているのを隣の女子トイレで私は聞いた。
やっと劇団四季を継いでくれる奴が現れたのかと。ずっと鉄の仮面でいなければならない浅利氏が緩んだのか?

さて、ここからが重要ですが「ひかりごけ」の前座の寸劇です。「聴き給え、君」諏訪正の作品。加藤道夫による朗読のためのコラージュ。それは30年前の記憶であいまいでしたが、それは確かにそのようなスタートでした。

聴き給え、君

男 ひとつの刑

男 かぐや代よ伝えておくれ

男 おまえしかいない

男 お前に思い出はない

男 幸せな思い出がお前を支えるだろう

少女 一番幸せな時

少女 一番美しい思い出

男 かぐや。お前は次期に悲鳴をあげるだろう。

少女 くるしい。

少女 竹の林にしか生きれない。

男 10年後

女 私は醜いのよ

男 知っている

男 かぐや。代よ伝えておくれ。

男 お前は身を捨てねばならない。
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この言葉は印象として残っています。

私は最近、諏訪正氏がこの作品を書いたのを知った。それが浅利氏の言い分だと思った。まぁ浅利氏が演出でGOサインを出したので、そう受け取ってよいのだと思います。

何人かのスタッフは私に死ぬまで着いてくるかどうかを考え始めました。私は3年先輩の女性スタッフに話ました。
「演劇に対する情熱はない。王様の耳はロバの耳の演目が終えた時、私は劇団四季をやめるつもりでいた。そういう星のしたに生まれたのかもしれない」とみんなの死について考えなければならないのです。優しい情熱持って巻き込むことは良いことです。ひとりよがりな情熱でみんなを巻き込むことはできない。私には冷たい視線が必要であり、私は情熱はありましたが、情熱を持っていないと答えました。

劇団四季の創立記念日の総会の日

私は挨拶だけはしっかりするものだろうと思いました。市村正親氏、石丸幹二氏、加藤敬二氏の前で「小道具の祝です」と堂々と俳優顔負けの挨拶をします。「なんだ。やってくれそうだな。幹二。お前の30年後が観たい。俺それまで生きてるかな。生きていないかもな」と浅利氏のびっくり発言。

3か月で2代目演出家、浅利慶太?

男性陣から浅利を泣かせた女だぜ。誰が処女奪うかな?や嫉妬のプレッシャーによって私は傷つきます。今、言われる過呼吸な症状かもしれません。私の足は私が望むように動かない。女性の小道具スタッフは心配していました。
「祝さんに無理だよ。できない。できない。できないって言ってみて!」多くの忍耐の後、私はそれを絞り出し、「んんんっ私はできない」と言いました。その後熟睡しました。翌日、部長から「祝さんに早目の夏休みをあげよう」と言いました。
演出家はわたしをさりげなく劇団四季を辞めさせました。

渋谷をうろうろしました。渋谷にも東急ハンズがあり、わたしはお馴染みの道を通りました。そして、劇団四季のスタッフの女性が材料を買うところに偶然会い、喫茶店に入ります。

「私は1年後、3年後、どうしているだろう」

劇団四季スタッフの女性「生きるのよ!」

こんなに必要とされていたのに必要とされなくなった喪失感。「くるしい」という言葉が突いて出ました。私は先輩にいいました。それは言霊呪縛から醜い自分になり、ノイローゼになります。1度目。

私の両親はなぜこれが起こったのかわかりません。親は電話で「娘に1年間働かせてください」と言いました。

部長は「あなたは迷惑です。来ないでください」ガチャ(電話の切る音)

当時は精神科のケアもありましたが、今ほどオープンではなく、どこに行っていいかわかりません。内科を訪れたりしました。大学病院にはインターンが並びました。「劇団四季で継げと言われて」「はい。いつもと同じお薬です」と誇大妄想に受け取られて、話すのはいつも5分です。

写真屋に務める。「写真やるなら、シアン、マゼンタ、イエローについて覚えてね」と言ってもみんな聞く耳持たず辞める。その時、家業の奥さんから、明らかにタイミングとして悪意がある時に言います。「祝さんて真面目すぎるんじゃない」
と言われ、私は壊れます。2度目

私は常に他人に悪口を言われているかもしれないと被害妄想も強くなりました。これを機に個人病院に変えました。「前の大学病院で言って失敗したから劇団四季のことは言うな」と言って、私の両親から厳しく念を押され、医師の先生は理解せずに薬を投与し、生理は1年来ません。鉛が入ったかのように極端な頭痛。やっと5年後友人からt主治医に話すことです。と教えられました。

その時付き合っていた彼氏に「生きてていいの?」と私は言っていました。

その前後、25歳くらいで陶芸を始める。両親がまともに働けないならと私に学ぶ機会を与えてくれました。29歳の時、アマチュアミュージカルに出演。いろんな人がたくさんいるんだなぁと思いました。私は30代40代壊れました。3,4回目でしたが、他の2回は混乱状態で駆け込み、よく覚えていません。

みなさんはこれだけの説明でお腹いっぱいだと思います。私の20代の歪んだ生活を理解できますか?私は青春かえしてと言いたいと思います。

客観的にみて私のここまでの悩みは子供の頃の傷と変わらないと言う人もいます。
でも私が結婚できたのは遅かったので、そう思えるまでかなり時間がかかりました。

常に「今」を感じよう。わたしは苦い思い出を持っているので、何も持っていなくても、今は幸せな気分です。
今となっては、障害を持っていても豊かに人生を送っていけると信じています。
人にはいろんな個性があり、障害も個性と受け取り、バネとして生きていくのでしょう。

健康が一番だとよくいいます。

今現在、統合失調症の症状で「体感幻覚」で左半身から右肩に向けてワイヤーなどの金属で引っ張られるように痛いです。私はうつ病から解放されましたが、この痛みを持っています。

訪問看護師によると身体は治癒しようとし、自然治癒力が働く。祝さんの場合、よっぽどつらい思いをしたせいで、それは非常に痛みを伴う可能性があるので、痛みは反動のために現れると。

もちろんなりたくてなった病気ではありません。発症しなかったら別の人生があったでしょう。
しかし、それを望んでも、病気の犯人探しをしても、症状はよくならないことをこの30年で学びました。

こうして第三者にまとめて伝える仕事が重要だと思いました。

30年後、私はやっと過去に感謝することができます。

また、出会った方々に感謝の気持ちを伝えたい。

時に間違ったものの見かたをすることもあるがどんな時でも味方でいてくれた両親には特別に感謝する。
親も親として一年生二年生だったのでしょう。

俺が生きている間はそのみのことを守ると言ってくれる主人に感謝。

それは必要な時間でした。

また、私と巡り会った時、惜しくも、波動を落とした方々にも感謝申し上げたいと思います。





ありがとうございます

ごめんなさい

許してください

愛しています

おやすみなさい。

エネルギーの調整、解放、再生、調和

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